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部落は次第に複雑な政治的構造を持つ部族社会を形成し、中央集権国家に成長していきました。 多くの部族連合の中で最初に王国を形成したのは、鴨緑江(アムノッカン)の中流域に領地を定めた高句麗(コグリョ、紀元前37~紀元後[西暦]668年)です。 廣開土大王(クァンゲトデワン、在位:391~413年)と長寿王(チャンスワン、在位:413~491年)が始めた征服戦争の結果、高句麗は満州地方と韓半島の広大な領土を確保しました。その後、中央集権的な政治体制を確立し、強大な国家を形成しました。 現在のソウルの近くの漢江(ハンガン)南部にあった部族から発展した百済(ペクチェ、紀元前18~西暦660)も、高句麗と同じように、古代国家を形成しました。百済は、近肖古王(クンチョゴワン、在位:346~375年)の時代に中央集権国家に発展しました。 新羅(シルラ、紀元前57~西暦935年)は韓半島の南東部に位置していましたが、当初は、三国の中で最も、発展が遅れていました。しかし、地政学的に中国の影響が少なく、中国以外の習慣や思想に対してより開放的でした。新羅は厳しい階級社会で、上層階級は当時の先進文化である仏教の教えを積極的に取り入れ、また「花郎(ファラン)」と呼ばれる青年貴族の軍隊を形成しました。 伽耶(カヤ、42~562年)は洛東江下流域の複数の部族が集まり、連盟体の形態で始まりました。 |
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新羅は6世紀半ばまでに、隣接する伽耶連盟の小国をすべて支配下に置きました。
また、新羅は、唐との軍事関係を構築し、660年に百済を、668年には高句麗を支配下に置きました。韓半島の統一は、公式には、新羅が676年に唐の侵略軍を退けた時に成し遂げられました。 新羅が国力や繁栄といった点で最盛期を迎えたのは8世紀半ばで、理想的な仏教国の確立を目指しました。壮大な仏国寺(プルグクサ)が建立されたのは統一新羅時代です。 698年、高句麗の遺民が満州の中南部に渤海(バルヘ)を建国しました。渤海には、高句麗の遺民だけでなく、多くの靺鞨(まつかつ)人もいました。 渤海は、高句麗の行政構造をモデルにした統治制度を構築しました。また、その進んだ文化も、高句麗の文化を土台とするものでした。 渤海は、北はアムール川、東は満州中南部の開原に至る広大な領地を支配し、9世紀前半には繁栄の最盛期を迎えました。突厥や日本とも外交関係を構築しました。しかし、渤海は926年、契丹に滅ぼされてしまいました。渤海の貴族たち、そのほとんどは高句麗の子孫ですが、彼らは南下し、新たに建国された高麗(コリョ)王朝に入りました。 |
高麗(918~1392年)は、統一新羅に反旗を翻して乱を起こした弓裔(クンイェ)の臣下だった王建(ワンゴン)によって建国されました。王建は、生まれ故郷の松岳(現在の北韓[北朝鮮]・開城)を都に定め、中国北東部で失った高句麗の領土を取り戻すことを宣言しました。 王建は国名を「高麗」としました。韓国の英語名「コリア」はこの「高麗」に由来しています。高麗は、高句麗の領土を取り戻すことはできませんでしたが、青磁や青緑色の青磁、仏教の伝統に代表される優れた文化を発展させました。その文化的業績の一つとして、1234年に、ドイツのグーテンベルグの聖書より200年も早く世界で初めて金属活字を発明したことが挙げられます。また、当時、韓国の熟練した職人が、仏教の経典を木版でつくるという困難な仕事を成し遂げました。 これら8万個を超える木版は、モンゴルの侵略者を撃退するために、仏教の力を引き出すことを目的としていました。 |
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1392年、李成桂(イ・ソンゲ)将軍が朝鮮(チョソン)を建国しました。朝鮮時代初期の国王は、高麗時代の仏教の支配的な影響を抑えるため、儒教を王朝の基本理念として積極的に支援しました。 朝鮮の国王らは、バランスのとれた政治体制によって王朝を統治しました。国の官吏を採用する国家試験である科挙制度を通じて優秀な人材を選抜し、この制度は朝鮮時代の社会的流動性や知識活動の重要な柱となりました。しかし、儒教志向の社会は、学問を極めて重視する一方で、商業や工業は軽視していました。 朝鮮の第4代国王・世宗大王(セジョンデワン、在位:1418~1450年)の時代には、前例のない文化・芸術の黄金期を迎えました。世宗大王の指導の下、学問研究所「集賢殿」の学者たちが、韓国の文字「ハングル」を創製しました。ハングルは当時、国民に正しい音を指導するという意味合いで「訓民正音」と呼ばれていました。 また、天文学に対する世宗大王の関心は広範囲に及び、日時計や水時計、天球儀、天体図などが作られました。 第7代国王・世祖(セジョ、在位:1455~1468年)は、国家の統治体制を合理化する取り組みの一環として法制度を整備し、政治の基準になった法典「経国大典」を編さんしました。朝鮮王朝の統治体制は、公式には、成宗(ソンジョン、在位:1469~1494年)時代の「経国大典」の完成によって確立されました。 1592年、日本は中国侵略への道を開くため韓半島に侵攻しました。しかし、海戦では、韓国の歴史上、最も尊敬されている人物の一人、将軍・李舜臣(イ・スンシン、1545~1598年)は、世界初の鉄甲船とされる「亀甲船(ゴブクソン)」を配備するなどして、一連の戦いで勝利を収めました。 17世紀初め、近代的な国家建設の手段として、「実学」を支持しようという運動が、リベラルな学者や官吏の間で活発になりました。 彼らは、土地分配の抜本的な改革による農業と産業の再編成を強く提言しました。しかし、保守的な役人たちは、そのような急進的な変化を受け入れる準備がまだできていませんでした。 朝鮮時代後半になると、朝廷の権力を巡り支配階級の間で派閥争いが繰り返されるようになりました。そのような派閥争いをなくすため、第21代国王・英祖(ヨンジョ、在位:1724~1776年)は、「蕩平策」という政治的なバランスを取る政策を打ち出すとともに、王権を強化し、国政の安定を図りました。 第22代国王・正祖(チョンジョ、在位:1776~1800年)は引き続き蕩平策を実施する一方、王室の図書館「奎章閣(キュジャンガク)」を設け、王室の書類や記録などを保管しました。また、他の政治・文化改革にも着手しました。この時代は実学が花を咲かせた時期といえます。数多くの優れた学者が、農業や工業の改革を求める斬新な改革案を提言しましたが、彼らの考えは政府にほとんど受け入れられませんでした。 |